法善寺の歴史
法善寺 ― おそらくこれほど小さくて、にも関わらず有名なお寺は全国でも稀でしょう。
不動明王と金毘羅堂の慈悲地蔵尊のある境内は数十坪、両方にお参りしても1分とかかりません。しかし、江戸時代の始め頃は境内も広く、本堂や庫裡、墓地などもあり、千日回向の中心地として栄え、「千日寺」とも称されていました。
現在の千日前はその前に拓けたところからついた名前です。
やがて境内に芝居小屋が建つようになりました。
境内に芝居小屋?なんとも妙な取り合わせですが、これはお寺の境内は一種の治外法権であったことが大きな要因だったとか。
今は小屋はなくなりましたが、定期的に“寄席”を開催するなど、その伝統は受け継がれています。
法善寺の歴史
法善寺の歴史
法善寺の歴史
当時、道頓堀には中座、角座等の「浪速五座」と呼ばれる芝居のメッカもあり、一帯はさながら“ブロードウェイ”。
明治~昭和初期にかけても寄席劇場が全盛を誇り落語を楽しむ人で賑わったり、ミラノのスカラ座がモデルの日本初の鉄骨・鉄筋コンクリートの映画館・大阪松竹座(現在は劇場)が建ったりと芸能文化の中心地として栄えました。
 その名声を決定的にしたのが、昭和15年に発表された織田作之助の小説『夫婦善哉』でした。
物語の最後で主人公の柳吉と蝶子は、法善寺の「夫婦善哉」に入ります。
そして一人前2椀のぜんざいを前に、蝶子は「一人より夫婦の方がええいうことでっしゃろ」と名台詞をつぶやくのです。
おそらく織田作之助自身が、店で聞いたぜんざいのいわれがヒントになったのでしょう。
この小説は映画にもなり、法善寺と夫婦善哉の名を全国に知らしめたのでした。
さらに藤島桓夫の♪包丁一本さらしに巻いて~♪という『月の法善寺横丁』のヒットによって、その名は不動のものになったのです。
太平洋戦争で辺り一帯がほとんど焼失したときも、唯一焼け残った不動明王は、現在「水かけ不動さん」と呼ばれお寺のみならず地域のシンボルとなり、人々に愛されています。
本来、不動明王は手に剣と縄を持ち、悪因縁を断ち切るべく怖い顔をしているのですが、神田眞晃住職によると「昔の写真を見ると優しい顔をして割と男前だった」のだとか。
しかし今は顔はもちろん全身が緑の苔に覆われており、その表情は望むべくもありません。
しかし、なぜこのような姿になったのでしょうか?一説によると、かつて一人の女性が「頼んまっせお不動さん」と願をかけ、合わした手で水をすくい全身にかけたのが始まり・・・と言われています。
おかげで今はお参りする誰もが柄杓で水をかけるため、苔は青々と輝き、その光沢を失うことはありません。
汲み置きの水がなくなれば、気づいた人がそばのポンプで水を汲み、次の人のために備える。
誰が言うでもなくそれが当たり前になっているのは、やはりお不動さんの功徳なのでしょうか。
「拝む姿がいつか拝まれる姿になり、優しい心が広がっていく。
そんな場所であればうれしいですね」と神田住職。
そんなふうに人を思う心には、きっと苔は生えないに違いありません。
法善寺の歴史
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